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2015年12月25日金曜日

新しいことを色々ためす

金魚を飼い始めた

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地元で暮らしているあいだほとんど暗室を使っていなかったが、少し前に興味深いことがあって、あらためてプリントのことを考え直すきっかけになった。

それからワーっと考えが出てきて、久しぶりに暗室を使おうと思ったんだけど、久しぶりに暗室を眺めてまず感じたのは、これじゃダメだなということ。

そこで、不満に思っていることを紙に書き出して、その全部を直した。

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もはやゴミ溜めである
9mm厚のOSB合板でガッツリ棚を組んだ

光る、スライドする
部屋中に散らかっていたものをゴッソリ集めることができた
浮いたスペースが活きるよう、全体を配置換えした

引き伸ばし機の配置が変わって、机を大きくした

流しのとなりにスタイロフォームでプールをつくった
このプールは次の実験で使う。排水はうまいこと流しにおちる

底面には傾斜がついているので、水は流しの方へ向かう

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改善前に比べて、収納力と作業スペースがともに3倍くらいになった。

セーフライトグラスが安く手に入ったので、セーフライトを2つ増やした。
これが劇的に明るく、文庫本が読めるほど明るい暗室になった。
20ワットの電球を内蔵しているが、もっと明るい球にしてもカブらないかもしれない。

このライトを作るにあたって、電動丸ノコの使い方を身につけた。
むかし新築マンションの内装をやっていたとき、職人が見せてくれたミゾ彫りを再現した。

1mm厚の刃を1mmずつスライドさせてミゾを切る技
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改善された暗室で、試したいことが3つあって、1つめを試した。







自分の顔をたくさん撮って、カッターで細かく切り刻んでみた。

プリントはネガの影を写し取るが、プリントを見ても、通常はそれを「ネガの影」だとあまり実感できないものだと思う。

35mmネガのパーフォレーションまで焼き込むというのに近いけど、ネガが写っているという物質感というか、これはネガであるという印象をプリントに追加することができたと思う。

当然、二度と同じプリントをすることはできない。
次のプリントに移るまでの間しか、断片の配置は保てない。

実験2と実験3は、今後また試して結果を書こうと思う。

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さて、冒頭に書いた興味深いできごとのこと。

バイト先でゴミを触っていたとき、ゴミ袋に入りきらない、分厚くて広い発泡スチロールのかたまりがあった。

発泡スチロールをバリッと割って小さくしたとき、その断面を見て、ピカーッとカミナリに打たれてしまって、しばらくその場から動けなくなり、ワーッと感想が走り抜けた。

俺が発泡スチロールを割ると、断面ができる。

断面は両方がオスメスに分かれており、デコボコが真逆になっている。

断面同士を元通りに合わせると、吸い付くように合わさって、スッと平面が現れる。

一回だけ割ることができる。一回しか割れることがない。

片方の断面をじっと観察しながら、俺は「片方の断面」なんじゃないか。
断面にはもう片方あって、それは俺の影というか、俺以外の全部なんじゃないか。
もし、俺と俺以外の全部をピッタリ合わせると、なにもない平面に戻るんじゃないだろうか。

俺が平面なんじゃなくて、平面が割れて俺と俺以外に離れたっていうことなんじゃ…

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しかもこれは、ネガと同じだとも思った。
シャッターを切ると、その瞬間の過去と未来が、白と黒に割れる。

俺ってなんなんだ?という疑問がもし解けるとして、それは俺そのものという断面を反転したもう片方の断面を眺めるだけのことにすぎず、もとのなにもない、自分が存在しない平面に戻るだけなんじゃないだろうか。

と思うと、考えたりやったりするべきこととは、自分の謎じゃなくて、自分が割ったものの断面にあるんじゃないかとも思った。

自分が今までで最もピッとくる発想が、ゴミから生まれた。

2015年1月29日木曜日

父と母と子ら

男女の意味での性は事実上のものでしかない

性とは自他のことだ

「私」と「私以外のすべて」という性があり、お互いに生殖し合う

「私」はこの事実上の存在としての自分自身のことで、この意識は「子」だ
みんなが自分の子(無数の自我)を持っている
無数の子とは、事実上の存在としての自分という母と、自分以外のすべてという父の間にある子だ

この意識は「子」なので、親である事実上の自分自身を認識できない。事実上の自分自身を認識できるのは他者だけで、その他者は私の子を認識できない

私の子が認識するのは子自身と事実上の他者で、私の子は他者の子を認識できない

私たちが見ているのは他者の親、他者の事実上の存在感だけで、他者が認識する他者の子はその他者自身にしか認識できない

父は母を強姦する
私以外のすべての存在は私という存在を強姦する

この意識は生まれてしまうことを止めることができない
子は母を守りたいと思い、父を殺そうとする

鏡の向こうではこちらと同じことが起こっている
子の母は、あちらでは父として、事実上の他者を強姦しているのだ


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「子」と、他家の「子」同士が結びついたなら、なにが生まれるのだろう

2014年8月14日木曜日

森山オナ太郎の奇妙な冒険

作ろうとして作ったものと、作ろうとしないで作られたものについて。

自分で自分に名前をつけて、自分で自分の作りたいものを決めて、自分で自分の作ったものに何かを与えたり、逆に何か得たりすることについて。

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このごろ、まったくやる気がない。
実家に帰ってきてから、ホームセンターでバイトをしながら、やる気のあるときと無いときを行き来しつつ、毎日をボンヤリとやり過ごしている。

なぜ自分は地元を離れたかったのかとか、地元を離れて何を感じていたのかとか、いざ帰ってきてみて何を思うのかとか、そういうことをグルグルしている内に、ジワジワと気がついてきたことがあって、それをどう受け止めるか、またはどう逃げ仰せたり覆い隠すのかとか、そういうことに腐心したり、逆に満足したりして、変にボンヤリしている。

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上京してしばらく、自分の作品を拙いなりに自分なりの考えでやってきた中で、明確に自認して言えたことがひとつだけあって、それは、画面の中に浮かび上がる要素のすべてをチリひとつ見逃さず、存外の要素の一切を許さず、そこにあるべきものを完全に自分自身で掌握して、そして支配するべきであるという考え、もっといえば信仰だった。

「そこに写ることを許したもの以外が写ることの一切を許さない」ということ。
「それがこの世に出てくることをあらかじめ許諾する」ということ。

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自分は、三兄弟の末っ子として育ったのだが、14歳のとき、急に弟が生まれた。
そのとき両親は四十代の後半にさしかかっており、明らかに危険な妊娠だったという。

これは後から、というより最近になって判明したことだが、自分を含む四兄弟は、全員がいわゆる「できちゃった」ものであり、計画もクソもない、何の意図もない自然の産物であったそうだ。

今にして思えば、弟ができたとき、そういうことをうすうす感づいてはいたのだけど、それを良いとか悪いとかで考えるには、自分はまだ幼すぎて、なかば自分自身の出自をも肯定できるように、自分たちのことを、ある方向性を持って自認していたように思える。

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最近、うれしいことがある。
それは、東京の人に「帰ってこい」と言われることだ。

こういう事態になって初めて思ったことだが、こういう嬉しい気持ちだとか有り難さとかいうものは、俺が自分で「制作」したものではないということだ。

自分は東京で、必死こいて「作ろうとするものだけを作ろうとした」つもりでいたけれど、結局のところ、この心を歓ばせていたものは何かというと、この手で直接に生み出したものではなくて、そこから自然に育っていったものだということだ。

制作を通じて知り合った人たち、一緒に暮らしてきた人たち、自分や、自分の手で生んだものを好いてくれる人たち、嫌ってくれる人たち。

みんな俺のコントロールの外にあるものばかりで、それらは何ひとつ、俺の意思を汲んだりはしてくれないし、何より「汲まずにして」そこに在ってくれる。

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自分が作ってきたものは、とても冷たいと思う。
自分のコピー、この心の鏡像、この自分の何かしら。
それらは自分の死体、愛すべき自分の死体だと思った。

果たして、自分はなにを殺してきたんだろう、なにを殺したかったんだろう、そういうことをボンヤリと、逃げ隠れしながら思っている。

2014年8月5日火曜日

カメラがぶっ壊れた話、など

カメラが壊れた。シャッターおりない。
カメラがいつ壊れたのかは見当がついているのだが、ちょっと不思議なことがあった。

愛知の実家に戻ってから、名古屋でもモデルさんが見つかった。わざわざ実家に来てもらったのだが、いろいろ準備をしている合間に、使っているカメラがどういう動きをするのかとか雑談がてら説明していたときには、ガシャコンガシャコン動いていたので、カメラは正常だった。それから暗幕も照明もカメラもセットして、あとはレリーズを押し込むだけで写るという段階まで持ってきて、そこでダメになってしまった。ダメになってしまったのはカメラの方ではなく、自分の方だったのだが。

どうしても最初のシャッターが切れなくて、ポーズも良く見えないし、光も良く見えないし、何より「ここで切っても気持ちよくない気がする」という雰囲気が加速度的に重たくなってきて、結局はただの一度も指を押し込むことなく、撮影自体をあきらめてしまった。

もうひとつ、撮影とは別にやろうとしていた制作も、とても首尾よくとは言えない結果におわり、失意と無念に沈んだ。

おそらくこのとき、既にカメラは壊れていて、もし半端な気持ちで、とにかく何でもいいから写ってくれや!と思って撮ろうとしても、たぶん物理的にできなかったんだろうと思う。

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それからほんのしばらくして、違う方法で改めてやってみようと、ブツを撮るためにカメラを用意したら、シャッターがおりなくなっていた。ウンともスンともいわない。ダイヤルの類いがカチコチになっていてどうにもならなかった。

症状を調べてみたところ、内部のネジの一部がすり減って機構の一部が連動しなくなっているような状態になっているらしかった。ゼンザブロニカは大変に古く、ヘンなカメラなのだが、今でも修理してくれるメーカーがあるので、そこまで心配はない。

しかし、修理するよりも、もう一度ほかの個体を買い直した方があきらかに安く済むし、またはこれを機にブロニカS2を卒業して、ついにRF645に乗り換える時か、といろいろ思案した。

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昔、大きな事故をやって、大事にしてたバイクを廃車にしたことがある。直すにしても新車を買い直す方が安かったので、そのまま潰してしまったのだった。

地元に戻ってからというもの、忘れていた古いことをたくさん思い出すようになった。
東京での生活、制作をする自分になる以前のことだとか、人とか記憶とか感覚だ。

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壊れたカメラは、直せるときに直すことにしようと決めた。
新しいカメラもおそらく必要ない。

昔、自分はカメラマンではないと思う、というようなことを書いたのだが、地元にいて、昔の自分と再会していると、もう少し違うことを思うようになってきた。

もともと、自分はクラフターみたいなもんだと思う。カメラを手にするまでも、してからも、たぶんずっとそうだった気がする。写すべきものの前にカメラを「持っていく」のは嫌いだったし、レンズの前に、写るべきものを切って貼って組み立てて「持ってくる」のが好きで、カメラはそれを見ているだけの方がいいのだった。

微妙にふっ切れたのもあって、今までと違う場所で、やり方で、気持ちで、ちょっとだけ違うことをやり始めているこのごろであった。


2014年6月6日金曜日

中間点

きょうプリントしていたネガは、割と手こずった。

プリントしながら、自分の中で、今までにすんなりとうまくいったプリントと、中々うまくいかなかったプリントは、何が違うのか考えていた。

手こずるとき大きく3つ状態があるように思う

1)テストはさっくり進むが、なぜか本番になっていきなりズレる。
2)テストそのものが難航する。その代わりテスト通りに本番もすんなり焼ける。
3)テストでも狙いが絞れず難航し、本番においてもガクッと変化する。

テストが役に立たなくなる場合の大きな原因は、テスト用と本番用とで紙の種類が違うということがまず思い浮かぶ。わざわざ違う種類の紙を使うのはテストにならないとも言えるのだけど、本番用の紙はテスト用に比べて倍近く高価で、しかも処理が大変だ。紙のスペックというか、紙の表面に塗布されている感光剤の種類だとかその感度や幅は両方とも一応同じことになっているので、それに甘んじていることが問題といえば問題なのだが・・・

1)の場合、テストのやり方自体が悪い。
2)の場合は単純に目が悪い。
3)は全部悪い。

【結論】知識と経験と技術と勘が足りない。
【対策】気合をいれて根性を叩き直すか、高いところから飛び降りる

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ふと、考え方を変えるというか、認識を少しズラしてみることにした。

まず、今の自分の頭には「思い描く理想の通りに現実が追いついてきてやっと合格」という思いがあるが、これはけっこう自分自身を強迫するものがある。よろこびが足りなくなる。今までもこういう性質のせいで、随分と悪い方へ悪い方へとハマり込んでいったものだ

もとより決して簡単すぎはしないことをやっているのだし、そういう乗り物に乗っかってしまった以上、それが自分の思い通りのラインを描いて、最速のタイムを叩き出せて、実現できて当然と思うのは間違いだ。間違っているのは運転手の方なのだ。

非実在的な「あそこ」まで到達しなくてはならないという思いに駆られるばかりだと、なにが悪いのか?という減点ばかりしてちっとも楽しくない。そういうのは必要な分だけにしておいて、基本的には、今できるのはここまでで、ここまでは実在させられるので、この既に過去になった現実の現在から、どうしたら良くなるか?という方が、よろこびを得られる気がする

自分自身を高く評価してしまう驕りや傲慢が過ぎると、作品や制作行為そのものを責めていることに気づくタイミングが遅れる

誰も何も、俺に命令しないのだから、どこへも行かなくていいような気がする。

もちろん、どこかへ行かなくてはならないんだけど、それは必要に駆られているに過ぎなくて、たった一人きりの自分の世界の中でだけは、本当に自由になれるようになりたい。

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もし本当に一人きりになれたなら、世界に一つだけの心になれたとしたら。
あらゆる「実在」から解放された、もしそんな場所や境地があるとしたら。
たぶんそこでは、神か仏か悪魔か、そういう「無いもの」とすれ違うような気がしてならない。

2014年5月31日土曜日

雑記

・パソコンが破滅した。iMacの2008年モデルなんだけど、だいぶ前に内蔵のHDDが破損したときなんとか外付けHDにOSをインストールして、以降はそこから起動するようにして誤魔化していた。しかし、ついに本体側のビデオカードだかロジックボードだか何とかがいかれてしまい、画面がシマシマになってしまった。どうやら修理するとたいへんな値段になるみたいだし、パソコンも消耗品なのだなあと、幾度めかの実感をしたのであった。

・ここのところ、毎日プリントしている。たまに気分が落ち込んでグッタリしているときもあるけど、総合的には前向きに暗室に取り組めている。

・精神的な調子がはずんでいるときは「できない」ということが改善の余地そのものに思えて、もっとやろう、もっと練習したり研究したい!という気持ちのもとになってくれる。テンションが低くなってくると、とにかく何かにどこかに届かせることだけが目的になって、まだいけるところに目をつむるような働きが強くなってくるように思う。

・とはいえ、見切った!とか、理解した!と思った直後かしばらくしたくらいのころに、それは勘違いというか、そう思った、そういう感想をその時は真剣に抱いた、ということに過ぎないことがわかって、また振り出しに戻る。ヨッシャ!と思うと、とたんに振り出しに戻る・・・

その繰り返し自体を、好ましく思えるときと思えないときがあるんだなということを、性懲りも無く何度も何度も繰り返し続けてきている。進歩がないのか!?と思うけど、そもそも進歩って何なの?というところに焦点を当てても、結局それも、⚪︎⚪︎が××したら、という身勝手な印象とか理想を追いかけているだけであって、げに「良さ」というのはことごとく夢幻のようなものだなあと思ったりもする。

・自家中毒がお家芸みたいになるとみっともないなぁと思う。誰かに褒められたいみたいなところに傾くのも怖いと思う。何のために?というのを「良さ」のために、と言い切るのも逃げている感じがして居心地が悪い

・生きている実感がある、とわざわざ確認しないようになれたらいいな〜。

2014年5月24日土曜日

くるくるパー

たまに、自信というものについて人と話し合う機会がある。

自信があるときと無いときの差が激しくて自分自身の生き方のパフォーマンスにムラが出てしまうだとか、生まれてこのかた自信をもてたことなどないし、根拠の無い自信をもっている人間を憎んですらいるだとか、そんなことをあーでもないこーでもないと話し合う。

自信は、生きていくうえでたいへん大切か、またはまったく役に立たないかというところに集約して、大まかな結論としては、だいたい2通りに分かれることが多いように思う。

それはつまり「生きよう」もしくは「死のう」という方針だ。
白か黒か。

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いろいろあって自分は一回死んだと思っている。

それはつい先日のことで、この自我はそのときドカンと爆発して急激に冷却され、今はふたたび平常に活動を続けているのだが、そのことを振り返って考えるとき、それまでと変わっていないことと、変わってしまったこととがあるように思える。その項目はたくさんあるので、いま書きたいと思っている点にスポットを当てたいが、関係ないようなことも交えて気分の向かうままに書きたい。

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・濃い影と薄い影

以前から、誰かと会って話したり、一緒に仕事をしたり、たまたま同じ電車の車両に乗り合わせていくつかの駅を通過したり、交差点ですれ違ったりするとき、人の影の濃さというか、存在している感じが強い人がまばらに見つかる。ような気がする。

ある人が、鉛筆でデッサンを描くとき「影」の描き方についてあることを発見し、それから上手に「影」を描き表すことができるようになったが、その代わり、巨大なビルが作り出す巨大な影に対して恐怖を感じるようになった、という話をしていたのを見かけた。

その「影についてのあること」というのは、影は「穴」であるという考え方だそうだ。
その話を見かけたとき、以前から感じていた、存在感を強く発している人物というものについて、符合するものを感じた。

光が何かにぶつかって、何かが光を「遮っ」て、その結果として穴が空いてしまったエリアを影とするならば、その「穴」に、深さというか、不透明感の違いを見ているような気がした。

より黒く、より深い「穴」をつくりだす、存在という「障害物」の透明度が低ければ低いほど、ふりそそぐ光をより遮れば遮るほどに、穴は黒く深くなる。

これは暗室での引き伸ばし作業についての印象と完全に一致する。
ネガを通り抜ける光、その光を受け取った分だけ黒く焼けこげる印画紙。

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・透明度の低い障害物

透明度というのは、光をどのくらい通すのか、どのくらい光に「通過されてしまうのか」というイメージで、光、というよりは「自分以外のすべて」と言い換えた方が良い気がする。

外部の世界(光)と、よりリンクしていて、より呼吸していて、より「光」を吸い込み、より何かを「遮って」いる存在というのは、光が通過しない。ふりそそぐ光を食っていて、取り込んだ光を消化し、その光を違うエネルギーに変換して、それを排泄している。それに光が当たった結果、黒く深い穴ができる。

外部の世界(光)と、ほとんどリンクしておらず、ほとんど呼吸をしないで、排泄とかエネルギーの交換をしていない存在というのは、光が通過する。それに光が当たった結果、透明な影ができる。

それに善悪があるわけではなくて、ただ、かたちと諧調と濃淡とが無機質に現れているだけだ。

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「少しも露光していない透明なネガ」が真っ黒な印画紙を生み、「完全に感光しきった真っ黒なネガ」が真っ白な印画紙を生むように、これは極端と極端を観察している状態に過ぎない。

人間をある状態のネガに例えること自体はただの夢想の域を出ないのだが、少なくとも、実際の写真においては、そのネガの中に、何が、どのようなかたちや諧調や濃淡をもって宿っているのかを、「真っ白と真っ黒」のはざまで、膝を突き合わせて観察する。

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自分のうしろに、または頭上に光があって、その光は自分を貫通し、その影が自分の前方に、または地面に影を落としている。

その影の姿は、自分の写真だ。

自分の心は、ネガという反転した存在であって、ポジとしての現実がつまり「自分以外の
すべて」であるなら、ネガという心は「すべて以外の自分」だ。

まず光があり「その下で」何もかもは完全に鏡映しになっている。

光と影が直接にあるのではなくて、まず光があり「その下で」ネガとポジが完全に反応している。

その光というのは、たぶん命のことだと思う。

そしてその光は無数に散在しているのではなくて、ひとつの太陽と無数の星々との関係のように、思い切り言ってしまえば、命はひとつしかないのだと思う。

「自分」は、その光の下で、ネガとそれを通り抜けた像を現している。

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「生まれたら死ぬ」ということを「死を生んでいる」と誤解することをやめるべきだ。
それは真っ黒な、または真っ白な印画紙であり、なにも写っていないことに等しい。

「何かが写っている」ということに、注意を払わなくてはならない。